くりバカ日誌

村山吉隆の友だちになりたい

【第29回】
ガーンズバックもしくはタツノコプロ連続体

 自衛隊も導入を目指している米軍の次期主力戦闘機F−22ラプターは、実質的な意味で最後の有人戦闘機と言われている。これは文学的な表現ではなく、次次期の開発プランは無人戦闘機しかないという話である。ネイビー・シールズに10年在籍したリチャード・マコウィッツがお送りしている「フューチャーウェポン」は現在の所このコラム連載陣視聴率40%の人気番組であるわけだが、でてくる兵器が次から次とロボットで遠隔操作でとっても安全! な、もう次の戦争は人間いらねーなぁというラインナップである。

 キリキリという甲高いキャタピラ音を響かせたロボット歩兵が、ライフル弾の火薬を舐めて半ラリ状態で頬を紅潮させた少年兵を、コンクリート壁越しの正確な射撃で撃ち抜くのは、もうSF映画の世界ではない。

 ラプターの話に戻る。この戦闘機はステルス性がウリで、レーダーに映りづらい。現代の航空戦はミサイル撃ったもの勝ちなわけで、朝鮮戦争の昔からあった「もう戦闘機って、ミサイル撃つ土台ってことで良いんじゃね?」というミサイルキャリアー幻想が現実になりそうな予感もする。
 相手から見えない所から、誘導ミサイル撃ってくるわけなんで、これが対戦ゲームだった場合は、なんというクソゲー、ちょwwwwバランスwwwwww、なわけなんだが、現実世界とは辛いもんだ。

 このステルス性を保つために、ラプターはミサイルを機体内のウェポンベイに内蔵して、必要時にハッチを開いて発射する仕組みになっている。

 これを見るたびに、昔のアニメの戦闘機もよく機体からハッチを開いてミサイルを撃っていたこと思い出す。連邦軍の次期主力モビルスーツRX78ガンダムのお腹の中のコアファイターも、ウルトラホーク一号も、ゼロテスター一号機もそうだった気がする。
 当時そういうギミックを、『いちいちハッチ開いて発射なんてリアルじゃない!』と思っていたものだ。
現在開発中のステルス水上艦も、傾斜平面で構成され余計な突起物なんか出ていないツルツルした形状は昔のアニメの宇宙船のようである。
 戦闘機搭載用のレーザーガンも戦車用のバリアーも開発中で、そこまでいくとそろそろ三機合体や変形してロボットになったりしない方がおかしい気までしてくる。

 未来というのは、わからないものである。 かつて古びた未来像だと思っていたものに現実世界が近づいていく幻視感だ。

 携帯電話に電子マネーをチャージしてのコンビニ支払いを試して、すげー未来っぽい!とニヤニヤしながら、早いところ貨幣単位が『クレジット』か『新円』に変わらないかなと思ったりもする。

 アニメや漫画があまり未来世界を描かなくなって久しい。精々は近未来まで、もしくは宇宙空間ということになっている現代社会と変わらないものだ。それは共有できる未来像が失われ、そこにワクワクするセンスオブワンダーを見いだせなくなっているからであろう。サイバーパンクでさえも、古くさいガジェットの集合体になってしまい色あせてゆく。

 お話作りを生業とする我々は、ストーリーを「それっぽく」するために現実的裏付けを意識しながら、時には踏み越えつつ時には現実に怯えつつ先へ進むのに、現実の方がそれをあっさり越えていってしまうのは、わたしの想像力が追いついていないからかね? と疑ってしまう。

 ミリタリーSFの戦闘機が加藤直之デザイン風ではなくてタツノコプロ風の方が正しいということになった場合、わたしは納得いくのかどうか、かなりの疑問だったりもするが、未来は多分すべてを裏切って藤子不二雄風になったりもするんだろうなと最近は思うようになった。ツルツルスーツ万歳。

 でも、30発近くのショットガンシェル(弾)を高速連射する銃は、さすがにチートくさいのでFPSで採用するのはやめてください。

■村山吉隆氏プロフィール
ブルームーン・スタジオ、代表取締役。アイディア出しのための散歩には良い季節。

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【第28回】
夜桜

靖国の夜

これだけ賑やかなら、英霊も寂しくはないだろうと思う。

 夜桜を見に行く。

 メンバーは編集E岡氏、里見氏、「夜8時に靖国神社」という実にアバウトな、っていうか「靖国で会おう」ってどうなのよ? と思える約束で集合。この三人で呑む場合は常にノープランである。年末の神楽坂を一時間以上、店をさがして歩き回った記憶もまだ新しい。今回も、もちろん場所取りだの、持ち込みだのそういうのは最初からなしで、なんとなく桜を見て、なんならその辺の店に入ればいいんじゃね? という案配だ。

 そんな調子なので、結局、靖国神社の入り口近くの夜店の大きめなテントで、焼酎・ビールを片手に一皿800円なりのもつ煮をつつくということになる。靖国の境内はすでに葉桜で風流のかけらもなかったが、春の夜風に吹かれながら人の行き交うさまを眺めるのは心地よい。

 一人の人間にとって始まりは誕生で終わりは死である。境遇、状況は違えどこれに例外はない。その間に、成長したり、人を好きになったり嫌いになったり、悩んだり、期待に胸ふくらませたり、衰えたり、後の世に残る業績をあげたり、賞賛されたり、侮蔑されたり、人知れず消えたり、いろいろなことが起こる(起こるかもしれない)。
これらの事に、どんな価値があるのだろうか? と思うことがある。
日本人らしく無神論者のおれは、死んだ後は何もないと思っている。あったとしても、幽霊になって、そこらを練り歩くだけだろう。
最終的に0ならば、紆余曲折、上下があろうとも人の一生にどれだけの価値があるのだろうか? 他人にとっての価値や人類にとっての価値ではなく、自分にとって自分の人生の価値をどのように評価するべきなのだろうか? と思う。

 大学時代、深夜に友人から電話があった。「これから行ってもいいか? 何かわからないけど急に不安になって、このままじゃオレ死んじゃいそう」と、弱々しい声で語った。
 おれのあまり掃除していない部屋にやってきた彼は、コンビニで買ってきたチーズとキムチをさかなに、紙パックの日本酒をグラスに注いで呑んでいた。とくに死んじゃいそうな理由を話すことはなかった。おれも何も問わずに一緒に呑んだ。
結局、彼は何も話さずに、朝になると「ありがとう」と一言残して帰った。不安の理由が何かわからなかったし、今も知らない。将来への不安なのか、失恋でもしたのか、世俗的な理由ではなくもっと哲学的な命題に行き当たったのか、人類の未来に絶望したのか、それとも、おれに禁断の愛の告白をしようと思ってきたのか、青年期特有の漫然とした不安感なのか、それはわからない。でも、あの夜には何かしら意味があったのだと思う。

 一週間後、彼は大学をやめて実家に帰った。おれの家にやってきた彼は、もう使わないからとファミコンを置いていった。
将来はコンピューター関係の仕事に就くのだろうなと漫然と思っていたおれが、コンピューターのちょっと脇道のゲーム業界に入ったのは、このファミコンがきっかけだった。

 この一件を、彼が覚えているかどうかもわからないし、おれに大きな変化をもたらすことになったのも知らないだろう。一緒に呑んだあの夜が、彼にどのような変化を与えたのかも知ることはないだろう。

 人生に何か価値があるとしたら、そういう僅かな人生の交差の記憶であろうと思う。桜散る夜にはそんな感傷的な想いを馳せてもかまわないだろう。

 と思うのだが、我々三人が話していたのは全くそんなものではなくて「おい、年末の座談会って結局どうなったのよ?」「あるって、こっそり左上のとこに」「マジで? 知らねーぞ」だの「つまり、あんたはウンコがデカいということでいいか?」「確かに、だが食べる量よりも出る量の方が多いということはあるのか?」「テレポートだよ! テレポート!!」だの「だったら、お前に本当のピータンを食べさせてやる」だのといったロクでもないことであったことを記述しておく。

 あと、座談会のおれ、キャラ変わってないか?「ちゃんとせにゃいかん」なんて、大沢親分なんて言ったかなぁ。まぁ、夢だな、夢。冒頭の一時間は、Wiiのコントローラーをパンツに入れて、なんて話をした記憶もあるが、夢だ。全ては儚い夢。つまり夢オチ。

■村山吉隆氏プロフィール
ブルームーン・スタジオ、代表取締役。なんだか微妙に忙しくなってきたが、今は何も言えない。

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【第27回】
いずれ来るもの

ボードゲーム

ネタがないので、またボードゲーム(Battlelore)の写真。最近、ボードゲーム的な処理を取り入れたシミュレーション系のゲームが出てきている。複雑さよりもプレイアブルで楽しいという方向性は歓迎。

 ゲーム業界で働くメリットは月曜日の朝にジャンプを読んでても怒られないことと、仕事中に音楽を聴いていても怒られないことだ。開発員がヘッドフォンをかけ、隣の席に座っているのにチャットでうち合わせをするというのは、よくある光景だ。わたしもコナミ在籍中にはこのスタイルで、さらにシナリオ作成に集中する時は頭の上からタオルをかけて左右の視界を制限するということをしていた。目の端の方で、何かがチョロチョロ動くのが気になるためである。競馬馬のブリンカーと同じ効果だ。あまりに集中しすぎて、自分では気が付かないうちに大声で歌っていてチーム員に気味悪がられるという経験もある。
 基本的に音楽は耳がふさがってさえいればいいので、一日中同じ曲がループで流れ続けていることが多いが、深夜作業にまで及ぶと「落語」のCDを取り出すことが多かった。もちろん、鳴っていればいいだけなので内容はあまり関係ないのだが、たった一人で職場に残っていると(これはシナリオ作業が他のパートとよりもかなり早い段階で仕事のピークがきてしまうためで、飛び抜けて働き者だったわけではない)、人の声が恋しくなるためだ。
 このペースは今でも変わらないのだが、最近は落語のCDの代わりにインターネットテレビで放映されている芸人のライブ配信にとってかわっている。毎日コンテンツが追加されていくため、気を抜いて一休みしているときにこれを見るのもいいものである。

 次世代DVD戦争はブルーレイが勝利したそうだが、映像コンテンツとしての光ディスクにどれだけ未来が残っているかは疑問を持っている。
 三カ月近く長引いていたハリウッドの脚本家ストライキが、ついに脚本家の勝利という形で終結した。「24」の次期シリーズの撮影中断や、テレビシリーズの放映中止、ついにはゴールデングローブ賞授賞式中止にまで及んだストライキの最大の争点はネット配信における映像コンテンツの利益配分である。
 北米での次期映像配信コンテンツはネット配信が主流になると見られている。iTunesのAppleStoreをはじめとして、動画配信プラットフォームがいくつも立ち上がりすでに鎬(しのぎ)を削りあっている。

 我が家にも大画面液晶テレビが導入され、一応、PS3やXbox 360を接続して、おーこれがHDクオリティなのだな、と感動していたが一カ月もすれば、別に普通のものとなってしまった。LDがVHSに勝つことができずに、映像メディアの切り替えはDVDの登場を待たざるを得なかったことは、人の世が映像の美しさではなく利便性によって動くことを示している。

 DVDは小さいし、好きなチャプターへと簡単にジャンプできる。これは便利である。なお、エロDVDは手を抜かずに、もっと細かくチャプター設定をしていただきたいと常々思っている。っていうか、シーンの始まったあたりは「使い所」ではないことぐらいわかっておるだろう!

 DVDから次世代DVDには、そういった利便性の向上が存在しない。綺麗な映像が見られることよりも、ネットからすぐに映像を見られることの方が確実に便利である。大画面に充実した音響装置を持った映画館からテレビへと客が移ったように、DVDの購入・レンタルからネット配信へと客は流れていくだろう。
 官民一体で千載一遇のチャンスとばかりに喧伝している地上デジタル放送はテレビメディアの終焉になるのかもしれない。

 ただ一つだけ、この流れに憂慮を抱いている部分がある。それは確実に購入・視聴記録が残ってしまうことである。これでは特殊な性癖を持っていることがデータとしてどこかに残ってしまうではないか? ネット上に残った記録は、基本的に秘密にはできないものだと思っている。これは憂慮すべき点である。DVD通販を、クレジットカードを使わず代引き購入するように、一定の匿名性を保証するエロ映像配信プラットフォームが必要である、だってエロサイトにクレジットカード情報を入れるのはイヤだろ? っていうか作ったら儲かるか? なんとかならんだろうか? っていうか裏ブルーレイとかがメインか? あんなものを高画質で見たらグロだろ? っていうか風邪引いて熱っぽいので、何かのハードルが下がってないか? っていうかJASRACのせいで、また日本だけ置いてきぼりにならんか?

■村山吉隆氏プロフィール
ブルームーン・スタジオ、代表取締役。なんだか微妙に忙しくなってきたが、今は何も言えない。

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【第26回】
積み木

ボードゲーム

これは、アメリカのボードゲーム会社のもの。コンポーネントは素晴らしいのだが、アメリカらしく物量作戦でフィギュアが100個ぐらいついてくる。

 前回の続きのはずなんだが、前回何を書いたのかあまり覚えていない。しかたないので、読み返してみる。

 一ヶ月前のオレは1ドットが指先の大きさの積み木キャラが、台詞に合わせて唇まで動くポリゴンキャラより優位にあると思っていたらしい。

 うーむ、何を書こうとしていたか思い出せない。いや、思い出した。ゲーム業界界隈でよく出てくる「ゲーム性」って具体的にはなんなのよ? って話だ。

 一定のルールのもとに、勝敗などを競うという言葉の定義だけでは現在のゲームのエンターティメント性は語れなくなっている。グラフィックが産み出す世界への没入感や、サウンドエフェクトといった部分を切り取った評価は意味がない。

 といったことを書こうと思っていたらしいが、前回の写真キャプションに書いたことが、ほぼ全てだったので、ここで終わりにしておく。
  そんなことよりも、役に立つ話をしよう。

 タバコの先っぽに、線香花火のタネをのっけてパチパチさせつつ吸うと楽しいけど、一酸化炭素中毒か何かの作用で意識がブラックアウトして足からくずれることがあるから気をつけて(*:よい子はマネしちゃダメだぞ。それ以前にタバコ吸うな)。

 いや、やっぱり戻ることにする。

 ドイツ製のボードゲームを買い集めるのが好きだ。もちろん、ゲームとしての出来が良いのも大きな理由だが、それ以上にボックスアートの素晴らしさがたまらない。美麗なグラフィックで飾り立てられた凝ったゲームボードに、木製の美しいコマ、こいつを眺めているだけで、そのゲームの取り扱う世界へと思いをはせることができる。

 そういう、遊んでる人をその気にさせる雰囲気作りも、娯楽の範疇に含まれる。

 ディズニーランドのライドアトラクションは、そこへ至る雰囲気作りを含んだものであり、それが宇宙旅行や西部劇や秘境探検という外見の部分も全部含めて評価するべきものであり、張りぼての岩や鉄筋が中に入ってる木の柱なんかを「本質ではない」として引きはがして、ジェットコースター部分だけを引っ張り出した評価には意味ない。

 だが、「ゲーム性」という言葉には、時にそういった乱暴な考えがまかり通ったりする。

 まぁ、最高のセットを用意しても、最終的に乗せられたのが臭い水の上をノロノロ移動するボートだったりするとカチンと来ることはある(It's a small world!)ようにバランスは必要だけどね。

 以上で、「ゲーム性」という言葉に対する疑問、もしくは時々感じる違和感についての話は終わり。以下は蛇足。

 グラフィックについて、一つだけ気になることがある。

 現在の日本のゲームの「グラフィックの凄さ」は、ゲーム全体の雰囲気作りとは関係なく、客寄せの看板として浮いた存在になってしまっていないか? ということ。
  現在の日本のゲームマスコミは、画面写真を載せるだけのカタログ化してしまい、客もそれを購入の目安とするために、作り手側も、そこで見栄えすることを重視しすぎて、必要もない「実写っぽさ」を取り入れすぎてる気がする。

 ゲームのグラフィック表現も、そろそろ一定のラインを越え始めたのだから、フォトリアリスティックなものばかりを評価するのではなく、そのゲームにとって一番雰囲気の良いグラフィックはどういうものか? という方向が主流になっていいのだと思う。

 その時、ぴゅう太の与作おじさんキャラが、場合によっては勝ってもいいのだと、そう思う。

P.S ここ2回分のコラムは、出来が良くないので単行本化した時には削除しますので、幻の回となるはずです。

■村山吉隆氏プロフィール
ブルームーン・スタジオ、代表取締役。なんだか微妙に忙しくなってきたが、今は何も言えない。

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【第25回】
ゲーム性

ミニチュア

簡単に言うと、このミニチュアはなくてもゲームできるけど、ないとつまんないってことなんだ。

 ゲーム界隈では、時々こんな主張を目にすることがある。

『グラフィックやサウンドはゲームの本質とは関係ない。
本当に面白いゲームは、たとえグラフィックが○や×のような記号だけでも面白いものだ』

 物事を論ずるのに、単純化した一点のみを取り上げ他を排除する主張は、ある種、美しくかつ反論しづらいものである。
一般的には、原理主義と呼ばれる主張だ。「ゲーム性原理主義」と言っても良い。

 そして、原理主義の共通の弱点は時の流れとともに、主張と現実が離れていってしまうことだ。

 コナミ入社当時のわたしは、この「ゲーム性原理主義者」であった。原理主義の美しさは若者の心をとらえやすい。ボードゲーム、ボードシミュレーションゲームに興じていたわたしは、ゲーム内にいかにジレンマや三すくみを取り入れるかがゲームを面白くする道だと思っていた。

 ここに一つの本がある。「カラー版・テレビゲーム大作戦」(実業之日本社刊行、昭和59年発行)、わたしが非常に大切にしている一冊である。こどもポケット百科シリーズの一つで、最新テレビゲームの情報満載である。取り扱ってる機種は、アルカディア、インテレビジョン、RX-78、光速船、アタリ2800、ソードM5、ぴゅう太、マックス・マシーン、クリエイトビジョン、カセットビジョン、マイビジョン、われらがセガのSG−1000、SC−3000、TVボーイ、そして最新鋭ファミリーコンピューターである。

 この本には、現存するゲームのほとんどの原型が存在する。シューティング、スポーツ、アクション(スニーキングアクションまである)、パズル、レース、アドベンチャー、RPG、ボード、シミュレーション。
 この中に存在しないのは、サウンドノベルと恋愛シミュレーション(聖子ちゃんカットの女の子のバストアップが表示されている「ユミちゃんのあっちむいてホイ」というゲームならあるが)ぐらいのものである。

 いわばテレビゲームはすでに20年以上前に完成されていたのである!!

 とやると、アジテーションっぽくて良いカンジではあるが、わたしはそうとは思わない。

 ゲームの楽しさは、そこに流れるBGMや、表示されているキャラクターが格好良く、もしくは小気味よく動くことだったり、ボタンを押してから攻撃が行われるまでのフィーリング(押してすぐに反応すれば軽く、反応を少し遅らせると重くなる)、操作ウィンドゥが小気味よく開いたり、画面上でかわいい女の子がほほえんだり、投げ飛ばされた女キャラクターがエッチなポーズになったり、ユミちゃんとあっちむいてホイしたり、タッチペンで汗を拭いたりと多種多様な要素の集合体であり、それをゲームシステム・ルールだけに矮小化するのは、もったいない話である。

 ただ、気を付けなければいけないのは、この進化の方向が「よりリアル」「より高解像度」「よりポリゴンがツルツル」「より音数が多い」といったものだけではない、ということである。

 先の「カラー版・テレビゲーム大作戦」に出てくる積み木で作ったようなキャラクターが次世代マシーンの汗が臭ってきそうな海兵隊兵士のキャラクターよりも絶対的に劣っているわけではないということである。

 いろんな意味で限界なので、以下次回。

■村山吉隆氏プロフィール
ブルームーン・スタジオ、代表取締役。なんだか微妙に忙しくなってきたが、今は何も言えない。

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【第24回】
猫の行方

羽化

家の塀にはりついていた羽化中のセミ。図鑑でしか見たこと無かった光景に出会ってちょっと感動。

 できるだけ身軽にするために、鎧の類はもちろん武器も軽い短剣のみ、音を立てにくい布製の靴、開錠用のピックを一揃えに数本のたいまつのみを持って城内へと侵入していく。時間は午前一時、城の主の伯爵夫妻が寝室へと入る時間。使用人や護衛の衛兵たちがあわただしく行き交うのを暗闇に身をひそめながら見守る。
  やがて、あたりが静けさにつつまれる。さあ、仕事の開始だ。目当ての寝室へ通じる扉にはカギがかかっている。いつものようにピックを使って忍び込んでもいいが、もう少しクールな方法を使うことにしよう。夜通し巡回する衛兵の足音が近づき、目の前を通り過ぎて背中を見せた瞬間にそっと影から身をのりだして、一瞬の早業でカギをスリ取り再び影の中へと戻る。
  衛兵が遠のいたのを確認すると、扉にするりと近づき中へ入る。ギルドの長、グレイフォックスからの指令は伯爵夫人が身につけているネックレスを奪い取ることだ。肌身離さずつけているソレを就寝中だけは宝石箱の中に入れる。おつきのメイドをなだめすかし、いくばくかの金を渡して聞き出した情報だ。
  寝室へと向かいながら、目についた銀の食器や貴重な本、高値をつけるワインなどを懐へと入れていく。これはギルドとは関係ない役得。盗品をとりあつかう故買屋に持ち込めばそれなりの金になる。もちろんギルドから文句が出るはずはない。盗賊ギルドが盗みに眉をしかめるはずはないだろう? ほとんど無意識に、金目のモノを集めていく。
  伯爵夫妻の寝室前には、衛兵が詰めていたが、目をそらしたスキに中へと潜り込むことに成功した。二人が眠る豪華なベッドの脇に目指す宝石箱はあった。カギがかかっていたが、こんなのは子供だましにすぎない。ピックを取り出してカリカリと掻き出してやると簡単に蓋が開き、ネックレスはそこにあった。情報通り。目的達成。簡単な仕事だ。あとは帝都へと戻るだけ。室内の物色を終えたところで、ついイタズラ心が騒ぎ出す。
  無用なリスクを犯すのはバカのすることだとわかっていながらも、止められない。だいたい、堅実な暮らしをおくりたいならこんな家業を選んだりはしない。戦士ギルドに入って真っ当な冒険者として暮らしたり、大学付属の魔法ギルドで研鑽を積むという道だってある。
  でも、この賞賛を受けることのない家業にも大きな喜びがある。それはスリルだ。
  ベッドに横たわる伯爵に近づくと、その懐に手をのばしてカギ、腕輪、そしてかなりの額の金をスリ取る。よしよし、こうでなきゃな。
  次は伯爵夫人と思い、手を伸ばした………瞬間に目を覚ました。女のカンっていうのは、いつだってやっかいな代物だ。今回もそれを痛感させられる。
  伯爵夫人の悲鳴に、隣に寝ていた伯爵も目をさまし素手で殴りかかってくる。外に詰めていた衛兵も抜き身の剣を片手に飛び込んでくる。おいおい、使用人まで、おれを袋だたきにするつもりらしい。
  こういう荒事は専門じゃない。準備しておいた呪文を唱える。ごくごく僅かの間だが、透明になれる魔法だ。魔法使いのように火の玉をぶっぱなしたりはできないし、そんなものは盗賊に必要ないが、他人を説得するのにひそかにチャーム(魅了)をかけたり、暗闇の中で敵に近寄るための、夜目が利くようになる魔法と同様に、逃走用には便利な魔法だ。
  寝室を抜け出すことには成功したが、廊下の先からは別の衛兵も集まってくる。仕方なく地下室の方へと逃げる。昼間の下見で、秘密の通路を見つけていたのが役に立つだろう。逃げながら、懐からたいまつを取り出して火をつける………

 そんなわけで、ここしばらくは『The Elder Scrolls IV』という洋モノRPGにハマっています。RPGと言っても、これは匂い立つほどの洋ゲー、どのぐらいかというと、どんな頑張ってキャラメイクしても、日本人的感覚のカワイイとはほど遠い、頬骨の張ったバタくさい顔の女しか作れないというぐらい洋ゲーなのだが、個人的には良ゲームだ。
  特にNPCの行動が秀逸だ。山道を散歩していると、狩人が鹿を追って走っているのを見かけたり、山賊がおそいかかってきて逃げ回っていると通りかかった兵士が加勢してくれて撃退、礼を言おうと近づくと、泥棒ということがバレて逮捕とハプニングには事欠かない。
  こういう、AI的な反応の作りは面白いと思う。

 新入社員で配属されたチームで担当した仕事で、同様のことを試したことがある。残念ながら、とある理由で発売されなかったが猫を飼うアプリケーションだった。
  室内にオブジェクトを置き、それに対して猫の反応を見て楽しむというものだった。

 通常は、それぞれのオブジェクトに対して猫側の反応の法則を定めるのだが、このアプリケーションでは、オブジェクトに対して属性データをつけて、その属性を元に猫の反応を決めるという形式を試した。

 話がむずかしくなったので、例を示す。
  通常は、水入れというオブジェクトと、猫の行動に水入れで水を飲むという行動をセットする。
  ここに、一段階増やして、水入れには水を入れられる器という属性をつけ、その中の水に、水という属性をつける。猫は水という属性がついているものを飲む。
  こうすることで、猫が水入れで水を飲むという行動は同じだが、別のオブジェクト……たとえばコップの中の水だろうが、水という属性がついていれば猫がそれを飲むようになる、という作りだ。

 こういった形で、その世界に存在するオブジェクトにどんどんと属性を追加していくといろいろと予想外の行動が発生し始める。
  一度、猫が部屋の中から消えてしまうという事態が発生した。鳴き声が時々聞こえてくるので、どこかにいるはずだが、どこにも見あたらない。
  いろいろと調べた結果、猫が水洗トイレの便器の中で水浴びをしていたことが判明した。水の属性と、一定の大きさ以上の器を持っていると水浴びをするように設定していたため(通常はバスタブで水浴びする予定だった)、水洗トイレの中へともぐりこんでしまったのだ。

 勝手に冷蔵庫のドアを開けて、中のミルク瓶を倒したのを見た時は驚いた(ドアは部屋間のドアを開けるように設定していた)。
  そういう自由度をもった世界をRPG内に構築できたら、ただ暮らしているだけで面白いだろうにと妄想するのだが、それはそれで、ものすごい作業量になるのは目に見えていたりする。
  だって、猫一匹で、あんなに大変だったのだから。

■村山吉隆氏プロフィール
ブルームーン・スタジオ、代表取締役。なんだか微妙に忙しくなってきたが、今は何も言えない。

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【第23回】
ネットの距離感

 里見氏と電撃オンラインXBOX360連合、略して『電箱連』を結成。日々、愛や信義やプライドや国体の保全とかのためにテロリストと戦っております。

「じゃ、ドア爆破して突入しますね」「了解、こっちはフラッシュボム投げます」「あ……手榴弾」
BOOOOOOOM!!!!

 という感じに手際良く処理していってます。
 テロリストが、俺たちを。
 現在の会員は二名、入会希望者は名前、年齢、入会の動機をテレパシーに乗せて編集E岡まで。

 さて、今回の本題。ネットワークゲームという大波の第一波は日本を素通りしつつ世界を席巻済み、今は円熟期というか、最初の熱情が薄れつつある時期に入っています。世界中の見ず知らずの人間と出会える架空の世界というものが、夢の国ではなくて現実世界の延長でしかないことが露見してしまい、架空の世界の中でもイヤなヤツ、嫌いなヤツというのはいるもんで、現実世界を忘れるために行った世界で別のストレスを抱え込むなんてことも珍しくなかったり。
 人間って、別にそんな無差別に他人と仲良くなりたいものじゃありませんからね。どちらかと言えば「ウマが合う」少数のグループでゆっくりするのが多くの人にとって最良の状態なんじゃないでしょうか?

 大量の知り合いを無差別にホームパーティに招いてバーベキューやパンチをふるまって、ジョークとハグとバカ笑いを繰り返す文化を持っておらず、日常的に遊ぶとなると4人ぐらいがリミットな日本人にとって(ここまで、主に偏見)、従来のネットワークゲームよりも、「もっと奥ゆかしいコミュニケーション性」をもったネットワークゲームが向いているんでないかと考えています。
 自分の気持ちを素直に出すという『下品』なことはせずに、短歌にして送り合うといった平安文化的、もしくは、こっそりお礼の品を置いていく、ごんぎつね的なコミュニケーションをスタートラインにしてはどうでしょうかね?

 中世ファンタジーの世界観ながら、プレイヤー演じるところの役割は山の中で一人くらす世捨て人。山間の森の中、プレイヤーに与えられるのはみすぼらしい掘っ建て小屋と、斧や簡単な道具だけ。
 一日のはじまりは、くすぶっている夕べの残り灰から火を起こし直して、質素だが身体をあたためてくれるスープを一杯。その後は、森の中で夕食の獲物をさがすもいいし、残り少なくなった薪を補充してもいい。
 山には、人の気配がすることはほとんどなく、以前に何度か遠くで木が倒れる音が聞こえただけ。それも、自然に倒木しただけのことかもしれない。
 そんな生活をつづけているうちに、いつもの山の中で自分のものではない木の切り跡を発見する。ほお、こんな所にも他にプレイヤーがいるんだ。
 そう思って、何気なく切り株にナイフで簡単なメッセージを彫ってみる。その後、何度かそこを訪れてみるも変化はなく、そんなことも忘れかけていた頃に、その切り株に一枚の布がまかれていることに気が付く。
 開けてみると、自作したらしい鉄釘が何本か入っている。そういえば、家の補修がそろそろ必要だったな、と思いこれをありがたくもらう代わりに、今日集めたたきぎを半分、そこに残して帰ることにした。
 なんだか、ひさしぶりに人のぬくもりに触れた気がする。

 ぐらいのコミュニケーション性が基本なMMORPGは、どうかな? もちろん、世捨て人なので、その場を離れちゃえば自分の掘っ建て小屋は絶対に他人にはみつかりませんから安心。

 などと考えているのは、多少、作業予定が詰まってる上にたちの悪い風邪をひいて、かなりテンパってるからでしょうかね?
 っていうか、この原稿も一週間遅れだが、よろしいでしょうかね?
 っていうか、最初はこんなこと書くつもりじゃなかった気もするんですが、文字数は足りているので、これでよろしいでしょうかね?

 それじゃ、オレ……銃と魔法の世界で殺ったり殺られたりしてくるわ。

■村山吉隆氏プロフィール
ブルームーン・スタジオ、代表取締役。なんだか微妙に忙しくなってきたが、今は何も言えない。

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【第22回】
人形

 原稿上げの後のぼんやりとした状態で、数日間椅子上の人となっていた名誉の負傷、背中に固い棒でも入っているんじゃないか? という肩こり、背中こり、腰こりに対し、おっかなびっくり背伸びをして、少しづつ解きほぐしていく。まずは、多少でもほぐしてからでないとマッサージへ行って、120分フルで揉みまくられても、こり固まりすぎて、感覚が麻痺してるのか、鈍い重さぐらいしか感じなくなってる状態から、こりまくり状態、うおおお、こってるぅぅ!!! イテテ、背中の微妙なこの辺がイタイ! ポキッて鳴らしたい、鳴らしたいけど、うまくいかねーーっていう状態に戻ったところで終わってしまい、マッサージ院を出たところで背中ポキポキ鳴らしている妙な状態になってしまう。
  マッサージ師のおっさんに、にこやかに「はい、終了ですよ」と言われて「あー、効いたよー、キモチよかった」などと言いつつ、施術台を降りるときに背中がポキリと鳴るのも、非常に気まずい。
  しかも、最近はどうも仕事場にいると特定方向からの悪意がこもった『気』のようなものを感じることが多い。くわばら、くわばら。

 さて、本題。いまだ、ゲーム雑誌誌上では、美麗な画面CGの写真がこれ見よがしに載っている。もちろん、動いたり、プレイしたりすることのできない紙の上のこと、画面のキレイさを競いあうのは、当たり前である。
  ちなみにゲーム雑誌編集部に渡す画面写真を、実際のゲーム画面に使われるモデルをPCで高解像度にレンダリングして、ゲーム画面と同じだけど同じじゃない画面写真を作ったり、ジャギの目立つ画面写真にソフトフォーカスをかけたり、レタッチしたり、編集部が独自に画面撮影するのを禁止したりするのは、テレビ局的な言い方をすれば「ヤラセ」じゃなくて「演出」です。

 それはいいとして、以前も書いたと思うが、ゲーム画面のリアル化、写実主義路線は一度いきつくところまでいくべきだと考えている。ゲーム画面が現実に限りなく近づいた所で、それでは足りないもの、ゲームとしてあるべき姿が浮き彫りになってくるだろうという予測があるから。
  そういう視点で、コンシューマー、PCゲーム、を見渡した時に、ゲームCGはまだまだこれからだと思う部分が多い。風景描写については、かなりのレベルになってきているが、特に、人間の表現については、止め絵としてのクオリティは上がってきているものの、それを動かした時の「気持ち悪さ」「居心地の悪さ」は相当なものである。

 「美人の美しさは、その8割以上が動きの中にある」という言葉を、以前に聞いたことがある。人を魅力的に見せるのは、表情の変化や、しぐさの美しさが重要だと言うこと。
  ゲームCGの女キャラクターが、不自然に露出度の高い衣装を着て、少年漫画の妄想おっぱい並の巨乳をふるわせていても、表情は不自然で、動きはどこかだらしなく感じる。

 最近は、フェイシャルモーションの研究も進んではいるが、今のところ「お人形さん」止まりである。

 個人的には、この動きの不自然さの理由は、モデルを「外側から動かしている」からじゃないかと愚考している。

 例えば、動きのモーションをつける場合、モデルの各関節にどの程度まで動かすことができるかの自由度が設定されており、モデルの動かしたい部分は移動させると、他の部分は、その移動に合わせてついてくるという形になってる。
  指先をひっぱって前に出せば、それにつられて手、手首、前腕、二の腕、肩、胴体が動いていくという作りだ。
  これは、操り人形の動きである。
  人間は当然ながら自立して動作して、外からの力ではなく、自分自身の力で、自分自身を動かしている。指を目標の場所へと動かすためには、指先を何者かにひっぱられるのではなく、最終的な到着点をさぐりつつ、また自分自身のバランスを常にとりつつ、肩、肘、手首の角度を変えていくのである。
  この両者の違いが、今のCGキャラクターの動きの不自然さにあるんじゃないかなと、密かに思っている。

 モーションキャプチャーという手法もあるのだが、ムービーならまだしも、ゲームCGとしての使用を考えると大抵の場合は生データをそのまま使用することはできず、人間の手による補正が行われることが多く、上記の問題を解消できるところまでは至っていない。

(次回へ続く?)

■村山吉隆氏プロフィール
ブルームーン・スタジオ、代表取締役。新規プロジェクトにとりかかっているが、名前が出てくるのはいつになることやら。

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【第21回】
生と死のシンボル

多摩川でケツの痛さに耐えかねて、枯芝の上で座り込んでいた時に撮った一枚。帰り道が大変な向かい風で少し泣きそうだった。

 年末の飲み会にて、引っ越し先が里見氏の隠れ家のすぐ近く、というか歩いて行けちゃう距離にあることが判明し、年始ぐらいからの仕事が一段落ついたので前回の氏の「くりバカ」コラムをプリントアウトして「この真面目な文章を書いたのはお前か、若者を啓蒙などしおって」とグリグリと押しつけに行こうと思っていた矢先、倒れて行動不能になり、なんとか病院に行ってその後、安静二日間という状況に追い込まれ「あぁ健康って何て素敵なことなんだろう」と何度目かの決心。しばらくは酒もやめて、健康的な生活を送ろうと考えております。
  一昨日、徹夜したけどな。

 ゲームデザイナー列伝は前回で終了。理由は飽きたから。予定していた残りの人については一言ずつ。
  ピーター・モリニュー=変態、ウィル・ライト=シムおじさん、ビル・ローバー=Hellgate早く出して。

 わたしは高いところが嫌いだ。理由は落ちたら死ぬから。
  小学生の頃に、神戸の高層ビルに連れて行かれて、建物のできるだけ中心部にしがみついて動けなくなった。理由は床が窓に向かって激しく傾いていたからだ。
  もし立ったりしたなら、そのまま転がって窓に激突、当然のように薄いガラス窓を突き破って永遠の空へとダイブ、すべてがスローモーションのように見え、一階ごとのすべての住人の様子を眺めながら通り過ぎて行き、耳にはボヘミアン・ラプソディーが再生され、意味のわからない笑みが浮かんだところで突然のブラックアウトで人生エンド、見苦しいシミになるのであるから、当然の行動だったはずだ。

 床が傾いていると気が付いていたのは、わたしだけだったようだが。

 この感覚は、いまだに直っておらず高い場所から(主にビルの屋上等)から真下を写した写真を見ただけでもクラクラくるぐらいである。

 ところで、わたしは飛行機に乗るのが大好きである。チェックインは可能な限り早めに席を確定して窓際を確保するようにしているし、離陸から空高く舞い上がるその一部始終を眺めるのは、何度見ても飽きないモノだ。
  大学時代には、ライセンスこそ取らなかったもののパラグライダーをやったこともある。あれは、生涯でも最高の体験の一つだ。
  タイでは、バンジージャンプにも挑戦したし、タンデムでのスカイダイビングもやった(この時は、落ちている間中、ずっと爆笑していたため口の中が乾いてしかたなかった)。

 わたしは高所恐怖症なのではなくて、高い建物恐怖症なんだろうか?

 どうにも高い建物のテッペンには死のイメージがつきまとうのである。

 逆に、高い建物を下から見上げるのは大好きだ。新宿の高層ビルに囲まれた場所にあるオープンカフェはわたしのお気に入りの場所のひとつだ。夜になり、肌寒さを熱いコーヒーで耐えながら、まばらに光の灯ったビルを見るのが大好きだ。

 その光のひとつひとつでは、仕事にくたびれたオジサンが文句を言いながらも、書類を作っているのかと思うと、干渉されることのない一人の状態にいながら、一人ではないことを確認できるという、最も心地よい他人との距離感を得ることができる。

 巨大なビルは生と死の象徴なんだろう。

 以上が、多摩川沿いのサイクリングロードを健康作りの第一歩として35キロほど自転車で走った末にたどり着いた結論である。
  翌日は、再び足が痛くなっていた。

 今回の結論、急な運動は心と体の両方の健康に良くない。

■村山吉隆氏プロフィール
ブルームーン・スタジオ、代表取締役。電撃マ王にて、「転生學園月光録 朔月の章」原作連載中。その他はチョロチョロと。

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【第20回】
シド・マイヤー

 年末に忘年会>風邪>病院>復帰>初詣>風邪>病院というコンボをくぐりぬけ、だいぶお尻の穴もゆるゆるになった気分で現在に至っております。
  ところで、『全く』話は変わりますが芸能界でのホモ話みたいに、ゲーム業界にもそういった類の話があり、これを話の枕にしようかと書きかけましたが、あまりにシャレにならないのでやめました。というか、仮眠室で寝ていて、ふと気配で目が覚めたらじっと見つめる人影が、とか、先輩の引っ越しに手伝いにいき軽トラに荷物を積み込んで発車。交差点で停まったところで、先輩の手がなぜか内股に、なんて話を書いても不愉快だと思うので、これを取り止めたのは、まだ熱っぽい頭でありながらナイス判断だぞ俺、と思っております。
  ただ、昼夜関係なく一つところに人間をぶちこんで仕事をさせる業界には、幽霊話とそういう話は多いな、という結論。

 さて、本題。
  シド・マイヤーもまた天才である。それも、前回のリチャード・ギャリオットとは完全に反対方向への天才である。リチャード・ギャリオットがゲームという言葉が表す枠の完全な外へと向かっているのに対して、シド・マイヤーは非常にゲーム的である。
  彼の代表作はシビライゼーションという人類の歴史を原始時代から宇宙開発時代までを取り扱った壮大なシミュレーションゲームである。このテーマ自体は、特別めずらしい物ではなくボードゲームでも取り扱われているものである。
  私が彼を尊敬し、天才の一人として崇める(もしくはファンとして崇める)理由は、ゲームにおけるリアリティという物に対する天才的な距離感を持っているからである。

 「リアルなシミュレーションゲーム」という言葉を聞いた時に、皆さんはどのような代物を想像するでしょうか? 
  シミュレーションゲームにおけるシミュレーションには二通りのアプローチが存在する。それは物理学的アプローチと、統計学的アプローチである。
  例えば、第二次世界大戦の戦車同士の戦いをシミュレーションするとして、各戦車の砲弾の貫通力や命中率と、それぞれの装甲の厚さといった数値から結果を算出するという考え方(物理学的アプローチ)と、実際にこの戦車とこの戦車が戦った時にはこっちの戦車が何割の勝率だったので、その勝率に沿うように数値を設定するという考え方(統計学的アプローチ)だ。

 両者には一長一短あり、どちらが優位というわけではないのだが、ことコンピューターゲームにおいては前者をありがたがる傾向がある。特により細かい数値、ファクターを取り扱い、より細かい選択肢をプレイヤーに提供する方がより「リアル」であるという感覚が垣間見えることがある。

 これは、細かい数値の算出をコンピュータに任せてしまえるために、扱う数値や係数をゲームデザイナーが簡単に増やしてしまいがちという側面と、より細かい知識、数値を取り込んでいる方が偉いというオタク的価値観に原因があると思う。その結果として、空母に載ってる攻撃機の細かい武装を一つ、一つまで設定できるという細部にまで手が届くようになっていながら、それがなんら意味がなかったり、逆に現実とはかけ離れて全機常に爆弾をパンパンに持ったまま飛び立たせるような事態になったりというものは、わりとありがちな話である。

 シド・マイヤーのアプローチは、これとは全く逆に見える。彼の作るゲームは、題材の壮大さとは逆に、取り扱う数値、ファクターは絞りこまれている。経済的な部分を例にとると「平地1ブロックからは資源1とお金1が取れます」程度のレベルに抑えられている。このファミコン初期のようなルール設定はゲーム全体に及び、槍をもった古代の兵隊と現代の爆撃機が同じように取り扱われるため、時には竹槍部隊がB-29をたたき落としてしまうということも起こったりもする。だが、それは些細な問題のように思える。それはゲーム全体が持っている「らしさ」というリアリティは、そういった部分を凌駕している。

 彼の過去作に「コロナイゼーション」という作品がある。これはシビライゼーションのシステムを流用し、アメリカの植民からインディアン(ネイティブ・アメリカと呼ぶべきなのかもしれないが、ここではこのように表記する)との戦い、本国との独立戦争を取り扱ったゲームである。
  このゲームにおいてインディアンは純粋に敵ではなく、交易を行い良き友人としてつきあっていくこともできる。しかし、過去の悲しい歴史を繰り返すまい、と心に固く決めてゲームをスタートしていながら、最初は控えめだったインディアンがしだいに「友人」という言葉をたてに強欲な要求をしてきたり、「聖なる土地を荒らした」として開墾した土地を攻撃してきたり、ゲームをうまく進めるという価値観から見ると相容れない態度をくずそうとせず、結局へき地で宣教師(雇うのに金がかかった)を殺されたのを契機に騎兵隊をさしむけて、インディアンの村落を焼き払って平地へと変え、そこを我が物顔で自分の土地として開墾を始めるという「ゲーム白人」に、いつの間にかなっているという事態が起こる。それが、まるで歴史の必然だったかのように。

 複雑なルーツで複雑なゲームを作るのは容易である。だが、簡単なルール、ファクターでありながら、それが産み出すのはより複雑な状況という仕組みにおいて、シド・マイヤーの職人的な技は冴え渡っている。

■村山吉隆氏プロフィール
ブルームーン・スタジオ、代表取締役。電撃「マ王にて、「転生學園月光録 朔月の章」原作連載中。その他はチョロチョロと。

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【第19回】
リチャード・ギャリオット

さみしい…

手下と一緒に漫画喫茶にてリサーチ中。男二人でカップルルームはホモっぽくてイヤ。

 リチャード・ギャリオットという人間は天才である。
 ゲームデザイナーとして尊敬する人物は多い。彼を始めとしてシド・マイヤー、ピーター・モリニュー、ウィル・ライト、ビル・ローパー、etc……、それぞれに最高の人物ではあるが、わたしにとってはリチャード・ギャリオットが群を抜いている。ある種の信仰にも近い。

 彼の手がけたUltimaというRPGはシリーズを重ねるにつれ、より複雑により詳細になっていった。キッチンで働くコックたちは夜になれば寝所へと向かい、キッチンテーブルの上にはリンゴやナイフが残され、それをこっそり盗みだすこともできる。ワイン用のブドウ棚で働く農夫と今年のブドウの出来や、最近ワイン泥棒が現れて困っているという愚痴を聞くことができ、その足でワイン倉へ行って樽からワインを瓶に注いで盗み出すこともできる。町はずれの詰め所には番兵が立っていて、バレないところからスリープ魔法をかけて眠らせてポケットから小銭を盗み出すこともできる。

 もちろん、ゲーム的にあまり意味のある行為ではなく、Ultimaシリーズがスーパーファミコンに移植された際には、その無意味さにある種ダメゲー・バカゲー扱いまでされた内容である。一応、徳という概念が存在して……などというシステムはあるとしても、ここまで詳細で些細なことを可能にする“必要”はない。
 ゲームとしては。

 その後、彼はUltimaOnlineという現在のMMORPGの先触れとなる作品を手がける。このゲームは、すでにEverQuest以降の最新ゲームにその座はゆずったとはいえ、未だに唯一無二と言える内容を持っている。その後のゲームが、戦闘と成長とアイテム集めという、よりゲーム的要素に絞って成功したのとは一線を画している。
 UltimaOnlineの世界では、プレイヤーは木を切って材木を削りだし家具を作り家の中に置くことができるし、森で見かけたウサギを捕らえて皮を剥ぎ木ぎれから薪を作って焚き火を行い、肉を焼いて食べることもできる。他のプレイヤーの持っているバックをこっそり盗み見てスリとることもできれば、(最近はできなくなったようだが)町はずれで人を襲って死体をバラバラに解体した後、道沿いに一個ずつ並べたりもできる。
 家具を作ったりする部分には経済ゲームとしての側面もあるのだが、それにしても手順がここまで複雑である必要性は薄い。
 ゲームとしては。

 そして、彼はUltimaシリーズの最終作としてUlitimaIX:Ascensionを発表する。3Dゲームとして発表されたこの作品は、残念ながらゲームとしてあまり洗練されていなかったが(Ultimaシリーズは常に洗練されてはいないのだが)、そこにはやはりリチャード・ギャリオットの理念が確実に存在している。その場に存在する細々としたものを持ち上げ、ポケットに入れ、投げつけて、町中で困っているおっさんの話を根ほり葉ほり聞きだしたあげく、困りごとの原因のガーゴイルのところへ行ってガーゴイルなりの立場を聞いた上で斬り殺すも無視するも、おっさんの所へ戻ってこっちを説得するも斬り殺すも自由である。

 リチャード・ギャリオットはこの作品の後、自ら創設したオリジン・システムズを去る。理由は定かではないが、オリジン・システムズを傘下にしたエレクトロニック・アーツが、彼がやろうとしていることを理解していなかったからだろうと思っている。

 彼がやっているのはゲームを作るという言葉で言い表せるものではない。リチャード・ギャリオットは「コンピューター上に世界を再現する」という妄想に近い目標に、邁進し続けている人間である。これは狂気だ。それも天才の狂気である。

 全てはそのために“必要”なことである。
 それらがゲーム上でできるようになっているのは、現実世界で可能だから、というシンプルな理由だけだ。

 もちろん、これと同じことを言う人間は多い。だが、その目線はある程度の場所での妥協という壁に阻まれている。当たり前だ。まともな人間は、それが不可能で、不毛で、多大な労力を注ぎ込むに足るリターンが保証されない行動だと知っているからだ。

 だが、リチャード・ギャリオットの歩んだ道は、これを目指した物に他ならない。もし、草原を抜ける風を感じ、草の青々とした匂いをかぎ、大地を踏みしめて歩き回り、金属のぶつかり合う重厚な剣戟の音を遠くに聞き、道沿いで追い剥ぎをして、死体から銀歯を抜き取ることができるゲームが実現するとしたら、(まだ生きていれば)リチャード・ギャリオットの手によるものであろう。

 そんな、神に挑戦するもの等しい無謀なことを本気で目指すのは、彼以外にはいないであろう。だからこそ私はリチャード・ギャリオットという人間を尊敬し、敬愛する。

 ただ、今手がけているTABULA RASAは、ちょっとナニな気がする。

■村山吉隆氏プロフィール
ブルームーン・スタジオ、代表取締役。電撃「マ王にて、「転生學園月光録 朔月の章」原作連載中。その他はチョロチョロと。

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【第18回】
ドラマ

 オリンピック、サッカーワールドカップ、最近のボクシングとテレビで見る機会があった。いろいろと意見もあるのだろうが、金をとって観客を入れるスポーツはエンターティメントであるわけで、当然のことながら演出は存在するし、存在するべきである。

 ドラフト制度も、細かく調整されるルール変更も、甲子園にこだわって一気に試合する高校野球の日程も、NBAのちょっと小さいボールも、アメフトがCM終わりまで試合再開を待つのも盛り上げるための演出である。

 このあたりの是非については議論する気はないのだが、それとは別にテレビ局は演出に対して勘違いをしてるのではないかと大いに感じる。

 ドラマは作り物、偽物である。だからこそ、本物に対して真摯になるべきである。

 ストーリーを作る上で、当然のことながら設定作りというものが存在する。時折、わたし自身を設定マニアだと思っている方がいるが、どちらかというと設定はストーリーの邪魔をしないように必要最小限に留める主義である。それでも、それなりの量の設定というのは作られる。

 これらはストーリーの表に出ることもあれば、全く出ることなく設定を記したファイルの中に眠ることもある。それはそれで良い。
 個人的には作ったものの全てを見せるのではなく、水に浮く氷山の見えている部分ぐらいを見せる方がストーリーに深みが出ると思っている。

 そのキャラクターの背景や、戦争物ならその国がいったいどの程度の国力を持ち、過去にはどういった経緯で成り立っていったのかという部分は作り上げる。
 その理由は、現実世界では何かが起こった背景には経緯や理由があるからというごくごく単純なものだ。

 誰かが何か事を起こすには、それなりの理由と背景がなくてはならない。そういった部分をないがしろにしては、いかに表に見えている出来事が感動的であっても説得力は生まれない。

 リアルな嘘をつくために、できるだけ本当のことを混ぜる。一番見えている部分では嘘をつくのだから、その周りや後ろの部分はできるだけキチンと作りこみ、現実に近づこうとする。そういう努力こそが、最終的にドラマを生むのだと思う。

 ところが最近のスポーツ中継における演出は、ドラマの見えている部分をできるだけ派手にするためには、その背景となっている部分を無視して構わないと思っているように見える。

 誰の目にとっても負け、力足らずが明白であるのに、それを無視して「奇跡の逆転」だの「最後の最後まで勝利を信じて」などという感動の方程式に乗っかった台詞をアナウンサーが大仰に叫んでみせることではドラマは決して生まれない。

 ただの嘘は人の心に届かないし、感動の押し売りは人を白けさせるのみである。

 勝つ見込みがないのなら、それを隠すことなく見せる。真実を99%まで追い求め、そこに存在する人間の顔を映した上で、残り1%の演出としてサラリと「場面」に仕立て上げるといったさり気ない上手さが必要なんではないだろうか。

 起こったことは事実。それを感動に昇華する視点を与えドラマに作り上げるのが演出である。

■村山吉隆プロフィール:
ブルームーン・スタジオ、代表取締役。脚本を担当した『転生學園月光録』(アスミックエース)が2006年秋発売予定。

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